処分前提のクリスマスツリーについて
ホテルのイベント運営スタッフから3メートルのもみの木をクリスマスツリーとして飾りたいという相談を受けた。
予算のことなどを確認したあとでクリスマス後のツリーの処遇を尋ねると、破棄するつもりだと返事があった。
短期的な目線で見ると、たしかに巨木を恒常的に置いておくのは邪魔になるだろう。
そして翌年もクリスマスシーズンになれば新しいもみの木を買って処分するという消費的なスタイルもあるだろう。
が、単年ごとに新調されたもみの木ではホテル側も特に愛着もない消費的で事務的なオブジェとして毎年クリスマスに登場することになる。
けれど、長期的に考えることができれば、単年で処分を繰り返すよりも、もみの木を地植えすることで、日々シンボリックに聳え立つもみの木としての価値を見出せるのではないだろか。
コスト面でも単年毎に買う費用と植え込みと年間維持費を勘案すればさほど差がないはずである。
またホテルという施設においては経年によるエピソードを塗布できるという観点も重要になる。
なので、最初の納品段階でホテルオーナーにもみの木を選ばせておくだけで、後年「初代オーナーが惚れ込んだもみの木」として価値を高めていくこともできるし、訪れた人から生まれる細やかなエピソードを集めて、幸福の木だと謳うこともできる。
それらをSNSやメディアに好意的に発信することで持続的な価値を湛えたもみの木になればコスト以上の役割を発揮してくれるはずである。
数年前に「世界一のクリスマスツリープロジェクト」みたいなことで、それをプロデュースしていた植物業界の寵児が炎上したのもツリーのリユース前提とした取り組みだったけれど、それが似非サステナブルで、むしろビッグプロジェクト特有のエゴイスティックな匂いがしていたからである。
わたしは別段サステナブルの推進者ではないが、些細なことでヒートアップしてしまうこの現代ではホテルなどは常に時代に即した態度を取る方が良いのだろうなという所感でした。
いまからサステナブルとかエシカルとかいう社会的道徳に搾取されるわたしの労働力について
本当は寝る前に書きたかったが、寝落ちして夜半に目覚めてしまった。
なので、朝の6時過ぎに片道60キロの移動の果てに搾取されてしまうわたしの労働力について書き記す。
わたしはフリーランスの花屋である。
この話に登場する人物と企業は以下の通り。
わたし(花屋)
知人A(とりまとめ役)
サステナブルなショップ(新規オープン)
_____________
ことの発端は知人Aからの10月にオープンするサステナブルなショップのお祝い花の制作依頼だった。
花屋業界には[とりまとめ]という形式がある。
新規オープンするお店に届く花の制作を1箇所に集約させて、依頼分の総予算でお店の雰囲気に合わせた装花を作り込むという形式だ。
まずショップ側が新規出店の案内状を各所に出す時に「お祝い花はこちら(知人Aの会社)にお願いします」などと記載されており、知人Aがそのお祝い花の依頼をとりまとめて、実作者としてわたしが総予算◯万円で受託したのである(とりまとめの手数料としていくらは抜かれているが、それは問題ではない)。
知人Aは依頼の際に「開店後の撤収作業のタイミングで、解体した祝い花を小さな花束にして来店したお客様に配りたい」というショップ側の意向要望があると伝えてきた。
「それも予算内でお願いします(予算すくなくて申し訳ない)」と付け加えて。
サステナブルなショップ側は解体後に廃棄される花(ロスフラワー)を減らしたいという想いがあったのだ。
その理念は理解するけれど、わたしはなにか釈然としないものがあった。
が、別件の依頼やらワクチン接種のタイミングやらでその原因を掴めぬままに設営の日がやってきた。
完成したお祝い花はショップ側も喜んでくれて、その無邪気な笑顔で「素敵なお花ありがとうございます。では撤収のときに花束の制作もよろしくお願いしますね」と言われた時に釈然としない理由がわかったのである。
サステナブルやエシカルとかいう善良な概念を信じているこの笑顔にわたしの労働力が搾取されるのだ。
つまり、解体後に花束を制作するための労働力の対価が存在していないのだ。
知人Aから「予算内で」と言われたけれど、彼がとりまとめた総予算はあくまでもお祝い花を贈る側のものであり、本来はショップが関与する予算ではないはずである。
理念に則って花束制作を要望するならばショップ側がその費用を負担すべき事柄ではなかろうか。
サステナブルやエシカルを標榜するショップはそれに気付いていないのか。
少なくとも知人Aからは「花束制作費はショップから別予算が出てます」とは聞いていない。
総予算◯万から花代と設営の人件費、片道60キロの設営と撤収の2往復の車両費を抜けば残るのは3万円である。
そして、そこから花束制作の資材費、余分な人件費を計上すると残りはいくらだ。
ラッピングペーパーを切り分けるごとに自分の労働力と利益が切り取られていくのを感じざるを得なかった。
サステナブルやエシカルという善良な概念、社会的道徳とは犠牲のない社会を目指すことだと思っていた。
搾取のない、対価のある社会こそこそが持続可能な世界だと思っていた。
今日、これからサステナブルなショップで配布される[廃棄されない花束]は善良な概念に使役させられた労働力でラッピングされているだろう。